兼高かおる女史の3回忌に思う!

今日は私の人生の師である兼高かおる女史の祥月命日で、今朝、仏前で三回忌法要を懇ろに行いました。

彼女は、私の人生そのものでありました。

かおる女史に認めてもらいたくて、今思えば、よくやってきたなあと思うほどの情熱でやってきたと思います。

今年70歳の私は、青春時代、毎週日曜日に放映されていた「TV兼高かおる世界の旅」を観て育ちました。

18歳でフアンレターを出したのをきっかけに始まり、20歳で自分の夢である自営業(お茶とコーヒーの店)を開設したいと語り、有言実行で20歳5か月で、開業しました。

開業して間もなく実母が脳梗塞で倒れ長期入院。時には尿が一滴も出す、尿毒症で生死をさ迷いました。

約1年近く入院。個室だったので当時のお金で(50年前)一日1500円でした。

入院費は重み、仕事と看病で、仕事も思うように働けず借金が加算していきました。

こういう時一人っ子は、全てを背負わなくてはならず、兄弟がいる家庭がうらやましくもありました。

そんな時の心の支えが兼高かおる女史でした。

そして当時、三津田高校の松本美鬼校長先生から、耳にタコができるぐらい聞かされた、「どんな辛いことがあっても『なにくそ!』の精神で頑張れ! そしてコツコツだ! そうこの『コツコツ、このコツコツ』」だと演台叩いたり、教室机の上をこぶしで何度も叩いたりして教えてくださったことが、私の心にしっかり刻まれており、「なにくそ!負けるもんか!」机を拳で叩いて、「コツコツだ!」と自分を励ましたものです。

また、「闇が深ければ深いほど暁は近い!」・「朝が来ない夜は無い!」とか「冬は必ず春となる!」とか、自分を励ましながらやってきたものです。

そして、兼高かおる女史には「見ていてください!必ず30歳までに自分の家を建ててみせますから!」と夢を語りました。

そして27歳の5月に現在の場所で土地を購入して3階建ての鉄筋コンクリートの家を建てることができました。

それも、尊敬する兼高かおるさんに認めてもらいたいとの思いがあったから、不可能を可能にできたのだと思います。

20歳で自営業を開業した時は広島市で会っていただきました。これが最初の対面でした!

そして27歳で家を建てた時、呉市で会っていただきました。

そして里親になることも相談。フミリーホームを制度化するために当時厚生労働省の担当衆議院議員と懇談要望書を提出したときも兼高かおる女史に衆議院会館まで車で送ってもらいました。

そして、我が家がファミリーホームになった時、子ども達と当ホームの職員とで兼高かおる女史に会っていただき紹介することができました。

彼女が高齢になってからは、よく我が家に電話をかけてきてくださいました。

年のせいか愚痴っぽくなり、いろいろな不満をぶちまけてくれました。

一例をあげると、淡路島の淡路ワールドパークONOKOROでのKさんとの対談でも、TV撮影と知らされなくてノーメイクでいたら急遽撮影になりメイクさせてほしいと言うと「時間がないのでそのままでいいです」と言われ、「相手はしっかりメイクしていて、とても不愉快な撮影だった、どう思う?」等々、世の中の矛盾や不合理を電話をかけてきて愚痴られていました。

年老いても女性だなあと思いました。「外国では私は日本の女性の代表です!」と平素から言われていましたから、死ぬまで女性の代表として生きているんだなあと感心しました。

時勢の理不尽さをよく愚痴られていました。

年を取っていくと段々赤ちゃん返りをするのかなと思いなが可愛いい人だなあと思いました。

老齢で足腰も動かなくなり、一度は行ってみたいと言われていた呉市の蒲刈島の江戸時代、朝鮮通信使の来日に際し、下蒲刈島が藩の接待所・玄関口として大歓迎をした記録が多く残されている「安芸蒲刈御馳走一番」や御手洗町の旧家や、美しい島々とそれらを繋ぐ橋が織り成す海の道「瀬戸内しまなみ海道」に連れて行く約束が守れなかったことが心残りです。

そんな思い出に浸りながら回向供養しました。

朝鮮通信使再現行列(呉市下蒲刈)

 

https://www.youtube.com/watch?v=AVL5SyN8CC0&feature=emb_logo